浦安の舞について
2017年6月4日
水橋中町 日枝神社 春季祭礼 神事と巫女舞
昭和15年(1940)皇紀二千六百年の慶節に、昭和天皇が昭和8年(1933)に御製された「天地に神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」の御歌(和歌)を、官内省楽部長であった多忠朝氏が作曲振付し「浦安の舞」として、その年の11月10日全国の村社以上の神社でー斉に奉納し、国の平穏無事と皇室の発展をお祈りしました。
「浦安」の語義は日本書紀に「日本者浦安国」とあり、また心中の平穏を表すとされています。
戦後は時代の流れによりそれぞれの神社に任されましたが、昭和30年6月当神社倉庫増築(平成2年焼失)の折、舞に使用する鈴が見っかりましたので、過去その舞が行われていたことは確かであるとし、復活させるべく昭和31年初老会(正弐会、昭和2年度水橋西部小卒28名)の方々より巫女の衣装がー部寄贈されました。
残り不足の衣装と鈴、扇を奉賛会で購入し、魚津市八幡宮の宮司高橋正治氏にお願いして、各町内より2名選出された巫女16名(当時氏子9町内)を12月16日より特訓していただき、昭和32年の元旦に「浦安の舞」を4人1組として4組で奉納しています。このときの様子は、日枝神社記録によると、「旭日の和やかな陽光を浴びて、社頭は新春の瑞相に溢れ、気温も例年より四度以上上昇して、誠に静かな元旦を迎ひた。
初詣の人引きも切らず、本年初の奉納舞を見んものと官殿内外に溢れ、神官(神主)の祝詞もー段と荘厳に、舞姫のひらかへす舞の袖と、打鳴る鈴の音は、元旦の気に融和して荘重を極めたり」と記述されています。
この復活1年目に巫女となった方々は、西部小学校を昭和30年度と31年度に卒業された当時の中学1年生と小学6年生です。
復活2年目は、昭和32年11月16日当時の婦人会長より同校32年度から33年度卒業予定者20名(氏子9町内より各2名、印田町と川原町は1名増)の巫女すいせん者名簿を提出され、翌日、響田一郎氏が滑川高校に在職中の石金清兵衛氏に連絡して録音機を借受け、西川礼子師匠を同伴し、勝山久二氏、渡波彦次郎氏とー緒に岩峅寺の多賀官(雄山神社付近)へ習得のため見学に行き、「立山の舞、榊の舞」を録音して来ています。その後数回にわたり、響田一郎氏と渡波彦次郎氏が石金清兵衛氏を介して録音機を借受け多賀宮へ行き、涙ぐましい努力をして各町の巫女20名を拝殿や社務所に集め、「榊の舞、浦安の舞」を連夜特訓し習得させ、昭和33年の元旦には4人1組5組で奉納しています。
尚、昭和33年初老会(参参会、昭和4年度水橋西部小卒29名)の方々より巫女の衣装4人分寄贈されました。復活3年目、昭和34年元旦の巫女は同校33年度から35年度卒業予定者20名です。同年4月8日、かねてより雄山神社ヘ神楽舞お礼のため一度参上したいと念願していた轡田一郎氏、篠田勇次氏、護摩堂松次郎氏は、巫女20名を引率して「榊の舞、浦安の舞」を奉納し宿願を果たしております。
*巫女の人数は昭和37年元旦より8名となる。
篠田卓明